連載 「新しき医療を求めて」
連載 第一回 「母の教え」
母の教え
人として、医師として、女性としての今の私があるのは、両親、先祖のおかげと感謝しているが、特に母の存在が大きく、それ抜きにしては私の存在は語れない。小さい頃から、「これからは女性も手に職を持ち、自分で選択できる人生を送れるように」という母の教えのもとに育ち、何かの専門職につくことが目標だった。
母は、鹿児島の厳格な一家の4人兄弟の末っ子で育った。二番目の兄が小児麻痺を患い、体に障害が残ったため両親はなるべく人目につかないようにさせ、父親はわが子でありながらやっかいもの扱いをしたという。そういう兄を父親や、意地悪をする学校の子供たちから守ってあげるのが母だった。
母は、声楽家か医師になりたかったらしいが、「女は嫁に行けばいいのだ」という父親の手前言い出せず、教職をとるためせめて大学へ行かせて欲しいと頼みこみ、東京の大学へ進学した。大学でも優秀で、東京の有名企業への就職を推薦してもらえたが、結局、親元を離れた女性の一人暮らしということがネックになり、どこにも受け入れてもらえなかった。
卒業後、地元の中学で英語教師として勤めていたが、両親が「体が悪い兄弟がいると貰い手がなくなるだろうから、早く嫁にいきなさい」、と再三勧めたため、たった一度のお見合いで相手のこともよくわからないまま結婚させられた。
嫁ぎ先は、母一人、子一人で30年以上きた地元の家だった。結婚式が済んだ途端に、姑の異常なまでのいびりが始まったそうだ。実家を出るとき、両親から「向こうのお母さんを大事にして、何があっても戻ってくるな。」と言われたことを忠実に守り、何をされても黙って耐え、ひたすら尽くしていた。3年目に長女の私が生まれたが、朗らかで活発だった母のやつれた姿を見てさすがの両親も「こんなになるまで我慢をしろとはいわなかった。元どおりにして返して欲しい」といって泣いたという。
父はというと、そういう母を支えるどころか自分の母親の言いなりで、今でいうマザコンである。姑と一緒に父までが母をなじることも少なくなかった。当然、夫婦らしい会話や意志の疎通、思いやり、そういったことからは全く無縁で、それは私が生まれてからも変わらず、母がかわいそうだと思い続けて育った。ここで普通のひと言があって欲しいな、と思ってもとんでもない返事が返ってくるか、怒鳴り声やスプーンがとんでくる。父の態度に恐怖や怒り、不安を覚える日々だった。母の孤独、悲しみを感じても、子供の自分にはどうしてあげることもできないもどかしさを感じていた。そうして、「私がお母さんを守ってあげなければ・・・。大きくなったら、お母さんを心から喜ばせてあげられる人間になる。」という強い気持ちが育っていった。
当時、誰か一人でもよき理解者がいてくれれば母は救われたのだろうと思う。常識的にはそれは夫であるはずが、そうではない。家を飛び出て実家に帰ることも許されず、「とにかく身の置き場がなかった。」と母はいう。だれも理解してくれる人がいない中で、このような状況に耐えただけでなく、強い信念をもって私たち娘二人を育ててくれたことにいくら感謝をしてもしきれない。
「自分で選択できる人生を生きて欲しい」という願いの裏には、母の苦しみと涙があった。それが、子供の頃から私の中に強烈にかつ自然に浸透し、今日までの私の原動力になってきたと思う。
連載 「新しき医療を求めて」 ~Dr.エミーナの医療革命~
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