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連載 「新しき医療を求めて」

連載 第五回 「医局員として」

医局員として

2年間の研修期間を終えて、第二内科での日々が始まった。やはり2年間の研修で得た成果は大きく、それらを生かしての診療にやりがいを覚えていた。また、診療の他に3年目からは研究も行わなければならなかった。

第二内科は特に研究活動にも力を入れており、医局の中が、いくつもの研究グループに分かれていて、その一つに所属し専門の研究をすることになっていた。

私は、学生時代からお世話になっていたH先生がおられる、T先生率いる成長ホルモン(GH)グループに所属させて頂く事にした。

医局での長年の歴史の中で、様々な経緯があり、このグループは当時の主任教授の流れからは疎遠にされていたため、H先生は私に何かと風当たりが強くなるのでは、と心配してくださったが、私は入局する時から、H先生のグループと決めていたのです、と伝えるととても喜んでくださったことを覚えている。

実をいうと私は、分子や遺伝子レベルの実験やデータを扱うことがあまり好きではなかったし、特に臨床に直接還元されにくい内容のものであればなおさらだった。

しかし、とにかく今は何でもやってみよう、やるしかない、と言い聞かせ、H先生にしごかれながら色々なことを覚えていった。実験は、何十回かのうちうまくいくのは一、二回ということも多かったが、根気だけはあったので続いたのだと思う。

この頃、当時の教授が間もなく退官されるため、教授選の準備が始まっていた。候補は他のグループ長のN先生、そしてもう一人が、私の所属するグループのT先生であった。N先生は主任教授が推薦する候補者であり、一方のT先生は長年、確執のあったグループの長である。当然、医局内は無言のうちにも奇妙な雰囲気が漂っていた。

H先生は、私に余計な波が及ばないようにしばらく医局から遠ざかっていた方が良いのでは、と大学院へ行くことを勧めてくださった。というのも、過去にH先生のグループで頑張っていた人や所属したいと希望した人に横やりが入り、残念なことになった例がいくつかあり、今回教授選もからんでくれば、どんなことが起こるかわからないというのである。

しかし、私は臨床での診療を続けたいという気持ちが強かったため、あえて大学院への道を選ばなかった。

同じ医局に入局した同期生は他に3人いたが、所属する研究室が決まった頃から、妙な距離感が出た。3年目からは関連病院へ一年間出張することになっており、どこへ行くか自分たちで話し合って決めることになった。

皆、自分が行きたい病院、行きたくない病院があり、当然行きたくない病院はほぼ一致するのである。だれがT病院にいくか、が問題になった。

案の定、N先生から私への圧力がかかった。医局で私一人呼び出され、
「T病院、とてもいい病院だよ。君がT病院へ行ってくれるなら、お給料をあげてもらうように交渉してみてもいいんだけれどね。」

私は、内心怒りを覚えながら、皆で話し合って決めますのでというのがやっとであった。N先生は自分のグループにいる、私の同期を希望の病院へ行かせたかったらしいのである。

重苦しい気分の中、機会は平等にするためにくじ引きにしよう、と私が主張し何時間もかかってようやく皆が同意した。1番を引いた人から希望の病院を選べる。私がひいたのは、1番だった。そして私は結局、T病院を選んだ。なぜそうしたのかは、今になってもうまく説明できない。

3年目後半から、いよいよT病院での勤務が始まった。大学病院とは異なり、受け持ち患者さんの人数が圧倒的に多く、色々な面で大いに勉強になった。高齢で長期療養を目的とする方の入院も多く、そこでの人間模様は大学では体験できないようなドラマがあったりもした。また、大学の医局に独特のピラミッド体制もなく、ある意味では息がしやすい環境だった。

そして、週に一回東京へ戻り、研究をするという生活。研究室では、教授選に向けての票読みの動向がちらほらと耳に入り、私も、やはりT先生がなられることを祈っていた。

投票は、丁度私が研究室にいく日の夕方に行われた。H先生をはじめ、研究室の皆が一室でまんじりともせず、結果を知らせる一本の電話を待っていた。ようやく、電話が鳴り、結果はわずかの差でT先生が当選。研究室で、みな手をとりあって喜んだ。

T病院での日々に慣れ、充実してきた頃にもう半年が過ぎ大学へ戻る時期になった。T病院の理事長から、ずっと残って欲しいと言って頂き、自分が頑張ったことを認めてもらえたことがとても嬉しかった。

連載 「新しき医療を求めて」 ~Dr.エミーナの医療革命~

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